2011年8月24日水曜日

der Zurückschauenweg ~Ⅱ~






料理人の世界もある意味閉鎖的空間です。古い師弟制度の残る店はどんどん減りつつあり、また形骸化も否めませんが、それでもやはり料理人同士の横のつながりがあるかというと、希薄であると言わざるを得ません。
店は店ごとに売りにする看板メニューがあり、その秘伝があるわけで、レシピは門外不出というわけです。その手の内を明かさないのが暗黙の了解で、必然的に閉鎖的になるのも無理はありません。
しかし、仮にレシピを手に入れたからと言ってそのままコピーすればその通りの料理になるかというと、実はそうではありません。
作り方のみならず、食材の目利きであるとか、切り方、煮方、焼き方、そのすべてに備わる技術は歳月を経て習得して初めて得られるものであります。その極め方やとらえ方は、それを作る料理人の裁量で大きく変化します。作る料理人の人間性が出来上がる料理を完成させるのです。ですから、もし料理を習うなら、修業につくなら、レシピを追い求めるのではなく、自分が「これ」と決めて惚れ込んだ、尊敬のできる人に付いて、その人に好かれる下っ端になるのが一番だと思います。その人が何を思い、考え、やろうとしているのかを、自分の肥やしにするつもりでしっかりと観察するのです。その人を良く観察し、追求し、探究できるように努めるのです。そうして培った経験は、根っこの太い大きな幹を作り、やがて立派な「自分」という樹を育むはずです。
しかしこういう考え方は古いと言われるかもしれません。現代の流れからは逆行している、と。でもこの考え方は時間こそかかるけれど、長い将来を生きていく上で天職を見つけようとするなら、ならぜひ試してほしいやり方だとと思います。
とはいっても尊敬できる人の下に就けるかどうかで、未来は大きく左右してしまいますから、必ずしもそうできるという保証はどこにもありません。そういう意味で僕はとても恵まれていたといえます。

二七で飲食の世界に入るというのは、脱サラしてプロ野球球団に入団しようとするようなものです。若いうちから肉体を作り、技術を磨き、記録を作るという現場でもまれてきた集団の中に、まるで見当違いなド素人がそのままマウンドに立つのです。実際にはそのようなことが起こるはずもありませんが、僕はまるでその現実的ではない状況の中へ身を投じることになりました。

僕は十八、九の若者から包丁の握り方や野菜の切り方を教わりました。見渡すと高校卒業の地方出身者の若者ばかりです。もしくは大学生のアルバイト。その中で僕は明らかに年配者で、しかも棒にもかからないど素人でした。
最初の二週間くらいは洗い場で働きましたが、その次はすぐに厨房に入り「手巻き場」というポジションに入れられました。「手巻き場」とは、手巻きすしをメインとして作り、すぐ隣の「造り場」というお刺身や創作料理を作るポジションのサポートをするのが仕事でした。「造り場」に就くにはその店でも最もキャリアを経た、経験のある者しか立つことを許されておらず、扱う食材も作る商品もワンランク上の物でした。いわば厨房のメインで、その店の料理における責任者が立っているわけです。いきなりその人の隣で料理を作らなければならない。当時「造り場」を任されていたのは僕より二つ歳上の方で、大江さんといいました。とても口数の少ない人でした。口で説明するよりもやって見せる、というタイプの方でした。
「あの、僕はまるで素人なんですが、なにをすればいいんでしょうか?」
「手で巻く巻き寿司を作るんや」
「…やったことありません。できるんでしょうか?」
「誰でも最初はやったことあらへん」
その日の営業は散々でした。慣れないものですから、伝票が通るたびに心臓は震えあがり、手に付くしゃりがあちこちに散乱して、持ち場は惨憺たるものです。出来上がるものも、とてもお金をもらえるレベルにはありません。僕はただただ恥ずかしくて、目の前を通り過ぎるアルバイトの学生に終始笑われている気がして、すぐにでも逃げ出してしまいたかったのを覚えています。
そんな僕を大江さんは最後まで面倒見つづけました。自分に溜まっていく伝票をこなしながら、僕の作業を見て、冷静に指示を出し、修正するところを修正し、最後までフォローしてくれました。大江さんが感情的になったのを、僕は一度も見たことがありません。
「毎日やっとったら上手くなる。けど最初から上手くはできひんもんや」
多くは語らないけれど、大江さんのその一言一言が、いつも僕の心に沁みていました。
しかしその大江さんは僕が入社して三ヶ月後には退社して故郷の家業の電気屋を継ぐことが決まっていました。ですから僕は最後の弟子になったのです。

大江さんが店を去って、新しく「造り場」に入ったのは、支店から配属された一つ上の方で、中江さんと言いました。大江さんが無口で包容力に溢れていたのに対して、中江さんは神経質で、感情的で、誰よりも仕事に厳しい方でした。できない事が許せなくて、できない者を頭ごなしに叱りつける人でした。それまで穏やかだった厨房は、中江さんの転属で地獄の強化合宿のような雰囲気になったのです。週末にはその檄が一段と拍車をかけ、罵声ともつかない声となり、厨房に響き渡っていたのです。
しかし中江さんは僕を他のものと同様には叱りませんでした。年が近いせいでしょう。想いの半分くらいで辞めてしまうので、逆に僕としてはやりにくかった。何をどうしてほしいのか、ちゃんと怒鳴ってくれればいいのに…、といつも居心地の悪さを感じていました。
そんな中江さんと酒を飲む機会がありました。あまり人付き合いのいい人ではなかったので、その機会は本当に稀なことだったのですが、その席で中江さんは僕にさしでこう言いました。
「田中さん、あなたは自分の歳を分かって仕事してますか? 僕らの職場はご存じのとうり、みんな年下です。仮に田中さんにこうしてほしい…例えば単純にアレ取ってほしい…って思っても、言われへんのです。できてへん、ほんまはこうしなあかん…そう思ってても言われへんのです。だから田中さんは、そういう言わへん言葉にもっと耳を立てて仕事しなあかんのです」
そう言われて、目からうろこでした。僕が料理が遅くても露骨に言葉を放つ人もいない。やらなアカンことをできてなくてもきつく叱ることもない。やってほしいことも敢えて他の人に頼む。僕は自分の仕事ができていない事は分かっているつもりでしたが、それでもじっと我慢してくれてる年下の先輩の厚意に甘えていた事を思い知らされました。


最初に出会ったこの二人の先輩がいなかったら、或いは僕は違った料理人を目指していたかもしれません。尊敬できる人との出会いというものは、人生を豊かなものにしてくれます。物の見方を学び、考え方を知り、何を感じるか、何を求めるか、それを探求することを知る。すると世界が変わるのです。自分が変わると、見えていた世界が変わって行く。その発見は僕の人生の大きな礎となりました。

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