2009年9月17日木曜日

あちら側


こういうことを書くと僕を変に思うかもしれない。


信じるとか、信じないとか、人それぞれだと思うけれど、それが見えてしまう僕にとっては「本当」だろうが「気のせい」だろうがどっちだっていい。ただ、僕には見えてしまうときがある。いつもと言うわけじゃない。たぶん波長のようなものが会ったときに、その体験は訪れる。



以前書いたけれど、僕の祖父が他界したときに、祖父は僕の枕元に立ちました。幼い子供の記憶だから、どこかで作り上げた虚像だったのかもしれない。そんな風に実際に片付けられてしまうのがオチなんだろうけれど、そう言うことが何度も起こると、なにが本当なのか、なにがそのときに起こったことなのかは僕自身が一番よく知っているという「確証」だけが残ることになる。



インターネットの世界でもそうした体験談や映像があちらこちらに取り上げられているわけだけれど、その多くは胡散臭いものが多い、と思っている。


本当に体験した人にしか分からない「感覚」と言うものが、・・・・やはりある。


僕の場合、それは不意にやってきて、通り過ぎていく場合がほとんど。それによって何か害を与えられたことなんてない。ただ後味の悪さや、得体の知れない不安・・・のようなものを植えつけられるだけ。多くの古い記憶は時間の経過とともにその輪郭を不確かなものへと経過させていくけれども、その体験から得られる記憶は長く僕の中に生き続けてしまうことになる。端的に言うと、それが僕にとって「体験する」と言うことなのだ。


見えるはずのないものが見えてしまったり、または「そうなるであろう」ことが見えていたりする。信じようが信じまいが、それが本当の話なんです。




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