2011年11月29日火曜日

die Grundhaltung für Kunden


私は10年間、京都市内に10店舗の支店を持つ飲食店に勤めていました。創業30年で市内に10店舗と言う出店ペースは決して早いものではありませんが、この会社社長のポリシーが「収益のための店舗展開ではなく、常に顧客満足度を満たすための店舗展開、進出」でした。つまり店のクオリティ、レベルを落とすような出店ではなく、必ずその地域でNO.1 を実現できる事を前提に置いての出店計画を貫いていました。
事実今日でも、どの店も連日満席で週末には予約を取ることもままならない盛況ぶりです。どの店の従業員も活気と笑顔に溢れ、常に来店されるお客様の心とお腹を幸せで満たしてくれる、そんな素晴らしいお店です。
私はそこで接客マナーを学び、実際にホール係としての勤務もこなしてきました。

「なぜ、お客様の来店に合わせて『いらっしゃいませ』を言うのか?」
「『サービス』とは何を示すのか?」
「最高のサービスを目指すために何ができるか」

決して難しく考えないでください。基本にあるのは、「最も大切な人を家に招くときにするべきこと」なのです。ただそれを『仕事』として如何に昇華させるかなのです。
これらの「サービス」は私が勤めた飲食店で実践されているほか、シェラトン、ヒルトンなどの一流ホテルまたはディズニーランドにて実践されているノウハウです。もし皆さんがそのノウハウを実体験し、実践していくことができたなら、接客サービスの向上のみならず、皆さんの将来の就職や、あなたの才能を活かすためのスキルの一つとして最高のパフォーマンスを発揮すると、私は信じます。


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「なぜ、お客様の来店に合わせて『いらっしゃいませ』を言うのか?」

 ただ言うだけではいけません。気持ちのいい笑顔を添えて「いらっしゃいませ」と言わなくてはなりません。そこにはまず『感謝』の気持ちを込めなければならないからです。「数あるレストランの中から当店を選んで来て下さったことに対する『感謝』なのです。また別の角度から見ると、働ける喜びを表す『感謝』でもあります。私たちの給料はオーナーから貰うのではありません。飲食をして下さったお客様の代金から頂いているのです。お客様がいなければ、私達が得る給料は存在しないのです。当然、「ありがたい」という気持ちを添えるにはあなたの一番素敵な笑顔を添えるべきではありませんか?
 また「いらっしゃいませ」という言葉には、働く仲間、従業員同士への伝達という意味も込められています。「いま新しいお客様がいらした」というお知らせなのです。ホール係は「接客サービス」のスタートを示し、調理スタッフには調理にかかる伝達になるのです。お客様がドアを開けた瞬間から、私達の新しい仕事が始まるのです。




「『サービス』とは何を示すのか?」
 「サービス」とは何でしょう? それは何かを無償で提供することではありません。「サービス」とは付加価値なのです。本来ある価値にプラスアルファされたもの。それはお得感であり、満足度を示すものであります。何かをおまけに付けることも確かに「お得」ではありますが、それは一時的なイベント的な効果を狙ったものでしかありません。この効果は一見効果的に見えても、決して継続的効果は望めません。では何に「お得感」見いだせばいいのでしょうか?
 一番身近にあるのは、あなたの「笑顔」です。
あなたがカフェでお茶をしようとしたところ、無愛想な店員のいる店と、愛想のいい店員のいる店があればどちらを利用しますか? 同じ4Euroのコーヒーを飲むのなら、気持ち良くお茶のできるカフェを選びませんか? それはつまり4Euroにプラスアルファである「笑顔」が添えられているお店を選んだからではありませんか?

もう少し付けくわえると、「サービス」とは言われる前にやった行為のことです。お客様がナイフを落とされて、その音を聞きつけてサッと新しいものを差し出した。席に着くときに脱いだコートをさりげなくお預かりした。例を挙げればきりがありませんが、要するに常にお客様に気を配り、お客様の立場になって、「○○○して欲しいんじゃないか」という声なき声に応えることを言うのです。気の効いた行為を「サービス」、ただ言われたことをするのが「作業」。この大きな違いをサービスを担う方々は十分理解して頂きたい。当然ですが、後者の「作業」従事者が得るチップは限りなく「0」に近いでしょう。




「最高のサービスを目指すために何ができるか」
東京ディズニーランドに残る素敵なエピソードがあります。一組の家族がディズニーランド内でカメラを無くしてしまったのです。カメラを無くしたのに気付いたのは、ホテルをチェックアウトようとしたその時でした。二日間の楽しいディズニーランドでの思い出が詰まったカメラを、どこかに無くしてしまったのです。園内の落し物センターには該当のカメラはなく、スタッフは万が一見つかった時のためにその家族の連絡先を聞いておいたそうです。その一件を担当したスタッフは、家族のカメラを無くした悲しみが、なぜかとても深く、心に焼き付いていたといいます。
スタッフAさんはもう一度探してみるつもりで、家族が回ったアトラクションを全てひかえていました。しかしどれだけ手分けして探しても、やはりカメラは出てきませんでした。そこであることにひらめいたのです。スタッフAさんは、家族が回ったアトラクションの順番に、それぞれのキャラクターに出演してもらい、一枚一枚写真を撮ってまわり、それをアルバムにして家族のもとに送ってあげたそうです。
しばらくしてその両親からは深い感謝の手紙が送られてきたそうです。その時一緒に訪れた娘さんは、実は白血病でこの世を他界された、ということでした。ただ、スタッフAさんのアルバムは、息を引き取る前に彼女の下に届き、息を引き取るまでずっと枕元に置かれていたそうです。娘さんにとっては最後の楽しい思い出の、記念すべきアルバムとなったのです。

このエピソードから「サービス」は「感動」を生む、ということがお分かり頂けると思います。きっかけはスタッフAさんですが、それに賛同し、閉園後園内を探して回ってくれた同じスタッフの方たちと、アルバム作りに協力した多くの方たちの暖かい気持ちがあるのです。
一人でできるサービスには限りがあります。
チームワークで同じ目標に向かって尽くす「サービス」に限界はありません。

最高のサービスとは、「サービス」をチームで担うことではないでしょうか?

とても忙しい時にあなた一人ができるサービスには限界があります。同じホール係が連携を取り、意識を共有し、助け合うことで、より多くの成果を得ることができるのではないでしょうか。私達は意思の疎通も言語の違いで存分にやり取りができないこともしばしばですが、目標は一つです。お客様に飲食を通じて喜びを味わっていただくことです。
同じ仕事をするのなら、有意義な目標を持って働きたいと思いませんか

2011年8月24日水曜日

der Zurückschauenweg ~Ⅱ~






料理人の世界もある意味閉鎖的空間です。古い師弟制度の残る店はどんどん減りつつあり、また形骸化も否めませんが、それでもやはり料理人同士の横のつながりがあるかというと、希薄であると言わざるを得ません。
店は店ごとに売りにする看板メニューがあり、その秘伝があるわけで、レシピは門外不出というわけです。その手の内を明かさないのが暗黙の了解で、必然的に閉鎖的になるのも無理はありません。
しかし、仮にレシピを手に入れたからと言ってそのままコピーすればその通りの料理になるかというと、実はそうではありません。
作り方のみならず、食材の目利きであるとか、切り方、煮方、焼き方、そのすべてに備わる技術は歳月を経て習得して初めて得られるものであります。その極め方やとらえ方は、それを作る料理人の裁量で大きく変化します。作る料理人の人間性が出来上がる料理を完成させるのです。ですから、もし料理を習うなら、修業につくなら、レシピを追い求めるのではなく、自分が「これ」と決めて惚れ込んだ、尊敬のできる人に付いて、その人に好かれる下っ端になるのが一番だと思います。その人が何を思い、考え、やろうとしているのかを、自分の肥やしにするつもりでしっかりと観察するのです。その人を良く観察し、追求し、探究できるように努めるのです。そうして培った経験は、根っこの太い大きな幹を作り、やがて立派な「自分」という樹を育むはずです。
しかしこういう考え方は古いと言われるかもしれません。現代の流れからは逆行している、と。でもこの考え方は時間こそかかるけれど、長い将来を生きていく上で天職を見つけようとするなら、ならぜひ試してほしいやり方だとと思います。
とはいっても尊敬できる人の下に就けるかどうかで、未来は大きく左右してしまいますから、必ずしもそうできるという保証はどこにもありません。そういう意味で僕はとても恵まれていたといえます。

二七で飲食の世界に入るというのは、脱サラしてプロ野球球団に入団しようとするようなものです。若いうちから肉体を作り、技術を磨き、記録を作るという現場でもまれてきた集団の中に、まるで見当違いなド素人がそのままマウンドに立つのです。実際にはそのようなことが起こるはずもありませんが、僕はまるでその現実的ではない状況の中へ身を投じることになりました。

僕は十八、九の若者から包丁の握り方や野菜の切り方を教わりました。見渡すと高校卒業の地方出身者の若者ばかりです。もしくは大学生のアルバイト。その中で僕は明らかに年配者で、しかも棒にもかからないど素人でした。
最初の二週間くらいは洗い場で働きましたが、その次はすぐに厨房に入り「手巻き場」というポジションに入れられました。「手巻き場」とは、手巻きすしをメインとして作り、すぐ隣の「造り場」というお刺身や創作料理を作るポジションのサポートをするのが仕事でした。「造り場」に就くにはその店でも最もキャリアを経た、経験のある者しか立つことを許されておらず、扱う食材も作る商品もワンランク上の物でした。いわば厨房のメインで、その店の料理における責任者が立っているわけです。いきなりその人の隣で料理を作らなければならない。当時「造り場」を任されていたのは僕より二つ歳上の方で、大江さんといいました。とても口数の少ない人でした。口で説明するよりもやって見せる、というタイプの方でした。
「あの、僕はまるで素人なんですが、なにをすればいいんでしょうか?」
「手で巻く巻き寿司を作るんや」
「…やったことありません。できるんでしょうか?」
「誰でも最初はやったことあらへん」
その日の営業は散々でした。慣れないものですから、伝票が通るたびに心臓は震えあがり、手に付くしゃりがあちこちに散乱して、持ち場は惨憺たるものです。出来上がるものも、とてもお金をもらえるレベルにはありません。僕はただただ恥ずかしくて、目の前を通り過ぎるアルバイトの学生に終始笑われている気がして、すぐにでも逃げ出してしまいたかったのを覚えています。
そんな僕を大江さんは最後まで面倒見つづけました。自分に溜まっていく伝票をこなしながら、僕の作業を見て、冷静に指示を出し、修正するところを修正し、最後までフォローしてくれました。大江さんが感情的になったのを、僕は一度も見たことがありません。
「毎日やっとったら上手くなる。けど最初から上手くはできひんもんや」
多くは語らないけれど、大江さんのその一言一言が、いつも僕の心に沁みていました。
しかしその大江さんは僕が入社して三ヶ月後には退社して故郷の家業の電気屋を継ぐことが決まっていました。ですから僕は最後の弟子になったのです。

大江さんが店を去って、新しく「造り場」に入ったのは、支店から配属された一つ上の方で、中江さんと言いました。大江さんが無口で包容力に溢れていたのに対して、中江さんは神経質で、感情的で、誰よりも仕事に厳しい方でした。できない事が許せなくて、できない者を頭ごなしに叱りつける人でした。それまで穏やかだった厨房は、中江さんの転属で地獄の強化合宿のような雰囲気になったのです。週末にはその檄が一段と拍車をかけ、罵声ともつかない声となり、厨房に響き渡っていたのです。
しかし中江さんは僕を他のものと同様には叱りませんでした。年が近いせいでしょう。想いの半分くらいで辞めてしまうので、逆に僕としてはやりにくかった。何をどうしてほしいのか、ちゃんと怒鳴ってくれればいいのに…、といつも居心地の悪さを感じていました。
そんな中江さんと酒を飲む機会がありました。あまり人付き合いのいい人ではなかったので、その機会は本当に稀なことだったのですが、その席で中江さんは僕にさしでこう言いました。
「田中さん、あなたは自分の歳を分かって仕事してますか? 僕らの職場はご存じのとうり、みんな年下です。仮に田中さんにこうしてほしい…例えば単純にアレ取ってほしい…って思っても、言われへんのです。できてへん、ほんまはこうしなあかん…そう思ってても言われへんのです。だから田中さんは、そういう言わへん言葉にもっと耳を立てて仕事しなあかんのです」
そう言われて、目からうろこでした。僕が料理が遅くても露骨に言葉を放つ人もいない。やらなアカンことをできてなくてもきつく叱ることもない。やってほしいことも敢えて他の人に頼む。僕は自分の仕事ができていない事は分かっているつもりでしたが、それでもじっと我慢してくれてる年下の先輩の厚意に甘えていた事を思い知らされました。


最初に出会ったこの二人の先輩がいなかったら、或いは僕は違った料理人を目指していたかもしれません。尊敬できる人との出会いというものは、人生を豊かなものにしてくれます。物の見方を学び、考え方を知り、何を感じるか、何を求めるか、それを探求することを知る。すると世界が変わるのです。自分が変わると、見えていた世界が変わって行く。その発見は僕の人生の大きな礎となりました。

2011年7月12日火曜日

der Zurückschauenweg ~Ⅰ~


 私が料理の世界に入ったのは二七の時でした。高校卒業後すぐにこの世界に入る若者に比べたら、約十年くらい遅いスタートです。
それまでは京都の中央卸売市場の仲買で肉体労働をしていました。毎朝五時に起床して六時からのセリに立って、競り落とした青果を電気トラックで市場内を動きまわって取引先のトラックに積み込んだり、伝票の整理をしたり、市内のスーパーに十トントラックで配達に回ったりしていました。
 体を動かして働くのは苦ではありませんでした、自分たちが社会の裏側で流通という役割を担っているという自負もありました。しかしそうはいっても、「仲買」という仕事が今の時代に取り残されつつあることは否めませんでした。大型スーパーは直接産地農家と契約して安定供給を図っていたし、セリという役割もそれに伴い形骸化がどんどん進んでいきました。あるときセリ人が「この落ち値はもう決まってるんだけどね」と、一応セリをしているふりをしてセリ台に立っていることを教えてくれたのです。また肉体労働だけで、施設内の限定的なスキルでしか通用しない仕事にも満足できなくなっていきました。

 「手に職を持ちたい」

 二四で結婚して、その年の五月には二人目の子供が生まれようとしている時期でした。自分を、今のうちに方向修正しておきたい。もっと広い世界で通用するスキルを持って仕事がしたいという思いが強くなり、とにかく片っ端から履歴書を送りました。新聞記者、広告代理店、製パン業、アパレル会社、輸入業、しかしこの歳で何のスキルもなく、経験もなければどこも雇ってはくれません。面接すら受けさせてもらえませんでした。社会はそんなに甘くはない。そうは分かっていても、釈然としませんでした。
 そんなある日、妻が独身の頃良く通っていた居酒屋が正社員の中途採用を募集しているという広告を見つけてきたのです。串かつ焼き鳥を専門とする居酒屋チェーン店で、料理は安くて美味く、いつも活気にあふれており、常に満席で有名なお店だった。結婚したときに数人の友人を招いて披露パーティーをしたのもここだった。僕自身、料理は素人だけれど、作ることには興味はありました。募集要項には「経験不問、年齢制限二五歳まで」とあり、既に二歳もオーバーエイジでしたが、ことごとく転職の希望の光が消えかけているときだったので、あかんでもともとだと、事務局に電話を入れたらその日のうちに面接に来れるかといわれた。僕はあわててスーツに着替えてそのお店の本店に向かいました。
 本店は京都・金閣寺の近く、北野白梅町に大きく居を構えています。丸太作りのどっしりした外観と内装で、壁は臙脂に塗られ、メインのカウンター席にはねぶたの絵が大きく描かれています。夕刻になればいつも満席で威勢のいい従業員の掛け声と、お客さんでごった返すこの店。自分がこんなところで通用するのか、まるで自信なんてありません。とはいっても子供も生まれてくる。既に転職を決めた後、引き下がれないわけですから、前に進むしかない。
 面接は本店・三階にある小さな会議室で行われました。せいぜい二十名ほどが入ればいっぱいになるような小さな会議室ですが、まだできて間もないせいか、とても清潔な感じでした。最近の居酒屋はこんな設備も設けるのか、と内心感心していたのを覚えています。飲食店ですから、料理を作って、それを売って、それだけをやっていればいいはずだと思っていた自分にしてみれば、不思議な空間でした。
 最初に面接に来られたのは女性の事務員(実際には社長夫人だったと後になって知るのですが)でした。彼女は「今から採用のための筆記試験を行います。用紙にある設問に三十分以内で答えて下さい」とホッチキスで止めた数枚の用紙を僕に渡すと、会議室を後にしました。内容は簡単なアンケートのような内容でした。「あなたはどこでわが社の求人広告を知りましたか」「わが社にこれまでに来店されたことはありますか?」「その時の印象は如何でしたか?」そのような内容だったと思います。しかし最後の設問だけはとても印象深かったので良く覚えています。その設問は

 「働くということはどういうことだと思いますか」

 働くということは、まず生活をするために必要なことです。食べていくためには、働いて給料を稼ぎ、家族を養っていかなくてはなりません。しかし何をやって働くかが問題になります。私は生れてくる子供に、背中を見せられるような仕事をしたいと考えています。

 詳しい内容は忘れましたが、そのように答えたのを覚えています。用紙が回収された後、社長が現れました。五分ほど待った後だったので、恐らく僕の書いた用紙に目を通してだと思いました。びしっとスーツに身を包んだ体はとても小さいのですが、その眼光は鋭く、肩幅はがっちりとしていて、まるで柔道選手のようでした。

 「履歴書を見たけど、中央市場で働いてたんやね。なんで辞めるんや」時間を節約するかのように素早く席に着く、とメリハリの効いた言葉でいきなり質問を投げかけた。
 「市場での仕事が、面白くないからです。私はもっと手に職をつけたいと考えてます」
 「そやけど君、もう若くないよな。今度二人目のお子さんもできる、とここに書いてある。面白いか面白くないかでいちいち転職してたら家族なんか養われへんぞ。市場かて立派な仕事や」
 「その経営者のもとでこれ以上働きたくないと思っています」
 「ほぉ、なんでや?」
 とにかく社長は人から話を聞き出すのが上手かった。僕はそんなことまで話すつもりはなかった。そんな事を話したら、まず採用される見込みもなくなる。でもなぜか話してしまいたい気持ちにさせてしまった。
 僕はその市場の仲買会社のオーナーが兄弟経営で、経営方針が身内内で内々に済ませてしまう閉鎖的な環境に辟易していた。自分がもっと広い世界で通用するスキルを身につけたいと強く思うきっかけは、そうした職場環境が大きく影響していた。
 「君の言いたいことは大体わかった。けどな、わしからしたら君は甘いと思う。君みたいな家族を持った男が言うセリフとは思えへんな。どんな会社に勤めても、グッとこらえなあかんときはなんぼでもある。それはうちかって例外やあらへんで」
 返す言葉はなかった。この人はまっすぐに直球で僕に話しかけてくれている。だからもう言い訳のようなことは何も話せなくなった。黙ってしまった。ただ歯を食いしばっていた。社長は自社の募集要項とその職種、経営方針と店舗内での取り組みなどについて事細かく説明をしてくれました。でもその内容は、僕が想像していた飲食店の仕事とはもっとずっと企業的でした。飲食店が存在する意義とは何か。その為の取り組みに欠かせない企業としての取り組みは何か、その指針は至極明確でした。
 「よしわかった。明日また同じ時間にここに来い。もう一回面接する」
 社長はそういって会議室を出た。取り残された僕はどうしていいのか分からなかったが、先ほどの女性がまた現れて、ニコニコと笑顔で「ほなまた明日ね」と送り出してくれた。
 まず採用される見込みはないだろう、なのになんでもう一度行く必要があるんだろう。
 次の日、社長は僕の生い立ちについて質問してきた。どこで生まれ、どこで育ち、何をしてきたのか。でも今思うと、この人はその時の内容には特に興味を持っていなかったと思う。社長が見ていたのは、自分のことを話す「僕」という人間について観察をしていたのだと思います。その間、社長はずっと僕から目を離さなかった。その目はまるで僕を見透かすように鋭く、真っ直ぐでした。
それから一通りのことを僕が話してしまうと、今度は社長にエンジンがかかった。自分はこの店をどんな店にしたいか。どんな会社に成長させたいか。その為には何が必要で、何をすべきかを、熱く熱く語ってくれた。僕はこの人が自分がこれまでどんな苦労をしてこの店を作ったのかではなくて、これからどういう風にしたいかについて語ってくれたことで、この社長についていきたいと強く思いました。是非ここで働きたい、と。

後から聞いた話では、採用者は二回面接をしてきたらしい。そして、また後から知ることになるが、社長のほか専務、料理長は全て兄弟、部門長も従兄で固められていたのです。その会社の社長に「前の会社が身内で固められていて閉鎖的環境で働くことに嫌気がさした」と面接のときに話していたのです。ですから当時はなんで採用されたのか、まるで分かりませんでした。ただの気まぐれだったのかも、と考えたくらいです。しかし今にしてみれば、そんな僕だったからこそ逆に興味を持ってくれたのかもしれません。社長の思いは、一商店から一企業へと発展させることにあったのですから。

2011年7月7日木曜日

der Zurückschauenweg ~序~


料理人の仕事は実に地味です。毎日同じことの繰り返しを、丹念に日々繰り返します。もちろん扱う食材やそれに伴う下ごしらえは、季節や仕入れ状況で変わることはあれど、毎日の仕事の段取りが大幅に変化するということは、まずありません。店がグランド・メニューとして基盤においているものの味やクオリティに変化やブレがあってはいけませんから、必然的にそうした基準での仕事というものが必要になります。
 ただお客さんは違います。毎日同じお客さんが来るわけではありません。客商売ですから、ときに様々な変化やアクシデント、要望にお応えしなくてはならなくなるのです。そしてこれに柔軟に対応する「要領」、つまりその「能力」というものが日々問われます。その柔軟な対応は、日々の地道な鍛錬の繰り返しの中でしか養われません。ベースにあるスキルがしっかりと地に根を張っていないと、のびた枝をしっかりと支えることはできません。基礎があるから、変化に対応できる…というわけです。そして大きな成果は、その臨機応変さの中のクオリティの高さで評価されます。その場しのぎ的な成果は、お客さんの心に長く留めておくことはできません。

 「いつ来ても期待通りの料理が食べられる」
 「いつ来ても満足のいく内容の料理が食べられる」
 
 これが私が考える料理人の基本姿勢です。ただ「いつ来ても…」と思っていただくためには、常に向上していなければ頂けない評価でもあります。また来て下さるというお客様の気持ちには、常に「期待感」が込められているからで、期待感は、それを上回る期待値で答えなくては満たすことができないからです。

 「飲食を通じて幸福と感動を味わってもらいたい」

 すべてはここにはじまり、これに尽きる、と私は感じているし、それを肝に銘じています。


 この場を借りて、私は私の仕事を振り返り、またこれからを向上させていく自分のために、思いのすべてを言葉という形に置き換えて、書き記し、残してていこうと思っています。

2011年6月3日金曜日

die Herausforderung

5月の」第二週から週末限定のランチコースメニューをはじめました。週替わりなので二日間限定の特別メニューでやってます。詳しくは店のHPで告知してます。下の写真は先週末のもの。

前菜二種 ・・・ サーモンの生春巻き(胡麻醤油ソース)、おろし大根のいくら和え
椀物 ・・・・・・・ 味噌汁(田舎合わせみそ)
メイン ・・・・・・ 海鮮丼
デザート ・・・・ 絹こし豆腐のざくろソースかけ、オレンジのコンポート(写真はトマトとバジルのソルべ。北ドイツで発生した腸管出血性大腸菌のために急遽変更)


ちなみに今週末は
前菜二種 ・・・ 豚の角煮バルサミコ仕立て、いんげん豆の胡麻よごし
椀物 ・・・・・・・ ミニ素麺
メイン ・・・・・・ 創作寿司4種と細巻きのセット
          ○自家製サーモンマリネの握り(プロバンス風)
          ○マグロとアボカドのタルタル軍艦にぎり
          ○海老にぎり、ワサビマヨネーズにドイツ産キャビアのせ
          ○う巻きにぎり
デザート ・・・・ 絹こし豆腐のアロエソースかけ、キーウィのコンポート

さらに翌週は
前菜二種 ・・・ 和風ポテトサラダ、甘海老のカルパッチョ・ペルー風セヴィチェのソース
椀物 ・・・・・・・ 味噌汁(田舎合わせみそ)
メイン ・・・・・・ 鮭といくらの親子丼
デザート ・・・・ 手作りシナモンのクリームプディングと季節の果物

この店ができるまではまともな日本食のレストランのなかったKiel。あまり冒険しすぎるのもどうかと、まずはベーシックに日本食の美味しいところを盛り付けで魅力だしをして工夫しながらご提供していきます。いずれも4品で19.50Euro。3品で17.50Euro。

月替わりのお薦め寿司も5月からはじめてます。こちらも良ければHPで。


店宣はこの辺で…、先週の休みにLaboeという北ドイツのリゾート地に行ってきました。


すっかり夏の日差し 。先月末に我が家にもようやく車(HONDA Fitz)が来たので、早速試運転を兼ねてすっ飛ばしてきました。この車、オーナーのはからいで用意してくれた。ドイツで日本車に日本人が乗っているというのはなかなか目立つんです。


砂浜に立っているのは籐で編んだ屋根付きベンチ。鍵がかかっていて、使いたい人は近くの管理小屋の親父さんに申し込むことになっている。この風景もいかにも北ドイツ的なのである。


それにしても驚くほどクリアな海でした。水はまだ冷たくてクラゲもいたから泳ぐ人もいません。しかし夏には人でいっぱいになるようです。

浜辺を散歩した後は海の家(ドイツにもやはりそのような売店があります)で生ビールを注文。もちろん日本じゃドライバーの飲酒は大変なことになりますが、ドイツではグラスビール一杯分は許容範囲として許されている。さすがビール大国だ。何事も節度をわきまえてやる。自己責任を前提に物事の選択肢を与える。そういう考え方が、日本では難しいのが現状だ。

2011年5月6日金曜日

Lübeck

オースター(復活祭)の休日に家族で隣町のリューベック(Lübeck)に行ってきました。Kielに来てSchleswig-Holstein州に出掛けたのが、実はこれが初めて。店がオープンしてからというもの、休みの日もなんやかんやとゆっくりできなかったから、おそばせながらの行楽へ。

雲ひとつない晴天に恵まれたこの日。35Euroで家族4人がSchleswig-Holstein州内を乗り放題というドイツ鉄道(DB)のチケットを購入。二両編成のこじんまりした列車だが、車両は新車で清潔、快適だった。おまけに乗客も少なくてくつろげる。


途中の駅Plön。列車はこの湖畔をすれすれに走る。さすが北ドイツのスイスと呼ばれるだけあって美しい。広大な湖は5つにまたがり広がっているらしく、遊覧船でのツアーが有名だ。


約1時間半でLübeck中央駅に到着。ハンブルグに次ぐ北ドイツの観光都市…と言われていたが、意外としんと静まり返っている。

駅を出て徒歩5分くらいで有名なホルステン門にお目にかかる。旧50ドイツマルク紙幣の絵柄にもなっていた15世紀の歴史的建造物です。北ドイツ独特の赤煉瓦造りでできているのだが、実はその重みに耐えかねて一部が陥没し、傾いている。よく見ると両脇の等が中央に向けて傾いでるのがわかる。

Rathaus(市庁舎)前の広場。美しい赤と白の対比です。この地下がレストランになっていて、北ドイツ料理をふるまってくれる。ここに到着したのがちょうど昼時だったので早速腹ごなしに向かうことに。

その入り口。重厚な趣です。扉は回転扉。


テーブルは一つずつ仕切られていて、壁には「ブッテンブローク家の人々」や「ヴェニスに死す」で有名な文豪トーマス・マンに関する資料が所狭しと飾られている。ナチスが政権をとるや否や国外に亡命し、ドイツに帰ることはなかったが、作家活動の中で彼のドイツへの郷愁は果てることはなかった。彼の生家は記念館として残っている。

注文した豚フィレ肉のソテーにジャーマンポテト、そして大量のグリーンピースの入ったクリームソース。いかにも!って感じのドイツ料理である。

もう一皿は魚介のグリルの盛り合わせ。鱈、鰊、鮭、海老、ムール貝が入ってました。中央の鰊のバターソテーはこの地方の名物。この二品を家族4人でシェアしました。

で、食後に向かったのがここ。”Niederegger ”Cafe。Lübeckに来たらまず外してはならないお店です。というのはこの街Lübeckの名物といえばMarzipans。これを使ったケーキやお菓子が味わえる由緒正しき老舗の名店なのです。お目当てはこの店が経営するCafeでお茶することだったのです。


娘はマジパン入りのチョコレートロールケーキ。


奥さんは、間にバームクーヘンがサンドされたやはりマジパン入りのカカオのケーキ


僕と息子はバームクーヘン入りのマジパンアイス(!)パフェを注文。メニューを眺めていて「何だこのマジパン入りのあいすとは!?」とのけぞってしまった。実はこれまでマジパンは苦手な方だったのだが、この店だけは別格です。ほんとに美味しい。特にこのマジパンアイスは最高でした。ただし7Euro 30。いい値段取りますな。しかしここでしかこれは食べられん味だ。

お腹もふくれたので街をひたすら散歩。古い街並みが美しく残されているのはKielと大きく違う所。Kielは第二次世界大戦で街並みを壊滅的に破壊されたからな。


テラス席もなぜか閑散としているレストラン。中心部を少し離れるとおだやかなムードが満開になる。


ワイン酒場の入り口。入ってみたい!と思ったけれど、まだオープンしてなかった。


見上げる教会。明るいけれどもう6時前。北ドイツでは夜11時くらいまで明るいとか…。


味のある家並みと町角。




ホントに雲ひとつないいい天気に恵まれました。休日だったのでどこも店が閉まっており、買い物ができなかったのが惜しかった。
まだまだ他の街も訪れてみたいところだ。

2011年4月10日日曜日

Stay strong

震災の復興には、阪神淡路大震災の時よりもはるかな歳月が必要になる。その現実は、こうしてはるか遠く暮らしている僕にも重くのしかかって来た。しかし、もううつむいているのはやめにする。

できることは何か。
やるべきことは何か。
そして、自分がどうあるべきか。

時には自らが選択できない現実の困難に出くわしてしまうのだ。
「絶望」、まさにそんな時ほどこの言葉がふさわしいことはない。
好むと好まざるとにかかわらず、降りかかる災厄に、
その「絶望」に、天を仰ぎ、神を恨む。

しかしその障害は、それを乗り切れる者の前にだけ現れる壁なのだ…、そう信じたい。



Hamburgの日本食レストランでは客足が遠のいているという噂を耳にした。客足が遠のくのは何も風評だけのせいではあるまいと思うけれど、まぁ一部にそういう動きがあるのかもしれない。
正直いって、僕はそういうのをまるで気にしていない。日本食が原発の問題で廃れるとはまるで思わない。使用食材の産地を気にする人も少なくないが、厳密に行って、ドイツ政府が輸入許可を経ていないものを我々が使用できるはずもないのだ。良識ある、極まともな人ならそれくらいの見当はつく。


そして今夜も店は満席でした。もともと僕の作る寿司は、盛り付けからしてアレンジをかなりしているもので、寿司というジャンルを経てはいるものの、それに囚われない前衛的(と言うと大げさか)デコレーションをこだわりとしている。その甲斐あってか、売り上げで寿司が低迷する傾向は今のところまるでない。もちろん危機管理をおざなりにはしてはいない。僕にはまだちゃんと策がある。それくらいのことも考えて仕事をしてプロと言うものだ。


もともと僕は高い輸送賃を払って直接日本からの食材を仕入れて特別な日本料理を作ろうという考えは爪の先程も考えていない。僕は日本人である。それが料理を作る上での大前提なのだ。料理人がドイツに来たのだ。まずはその土地で手に入るものを使って、日本人の視点と、日本人であるが故の食味と、積み上げた技術とで、まずは「美味いもの」を作り上げるのが使命である。


僕が作るのは、その大前提における「寿司」と言うジャンルの料理だ。
今夜来て下さった常連のお客さんは、僕のことを芸術家だと、評して下さった。食べて美味しいのは基本中の基本。それを目で慈しむことのできるレベルに昇華する、そのことを汲みとって評価頂いたと、有難く承りました。


ネタの魚介類はもっぱらユーロ圏内からです。主にマグロは地中海産(スペインもしくはギリシャ)、サーモンと鯖はノルウェィと言った感じ。しゃりに使う米はイタリア産。これだって現地で日本人スタッフがライセンスを持って生産したもの。でもね、このジャーは日本製です。象印さんの優れモノです。この炊き加減だけは譲れませんね。


ある方からネタもさることながら、とにかくしゃりが美味かった! と言っていただいたのは嬉しかった。しゃりの炊き具合だけはこれで万事オッケーなんて軽くひとくくりにはできないからね。
寿司ネタは鮮度が大きく左右する。でもしゃりだけは料理人の腕がまずは評価されるところですから。

最後にこのサイト見ていて涙が止まらんかった。とにかく踏ん張って行くしかないんや! そういう気持ちでいっぱいになった。Stay strong !
まさにいまはそれなんやと思った。
http://www.youtube.com/watch?v=SxzWNQGCogo

2011年3月17日木曜日

die Entrüstung

お店は今日も満席でした。多くの方が僕のお寿司を注文し、喜んで満足して帰って下さる。ある方は「ミュンヘンやハンブルグ、ベルリンで食べたどの寿司よりもおいしい」と絶賛して下さる。ありがたく、光栄にそのお言葉を頂けばいいのに、この頃の僕はそれを素直に受け入れられない。


満席で座れなくて文句を言う人。酔っぱらって大声で笑う人。持ち帰りは受けてないのに、自分を「常連客なんだからやってくれてもいいだろ」と憤慨するおかしなひと。なんだかんだにぎやかに色々な出来事が毎晩店で繰り広げられる。大量に通ってくるオーダーに、右ひじの関節炎は悲鳴を上げている。コルセットをしていても殆んど意味がないくらい、この頃は状態が良くない。
それでも自分が引いたハードルを下げることなく、クオリティーだけは維持し、また向上させんと懸命になる。


 そこに舞い降りる疑念。今の日本を思えば、こんな風に我関せず…といった感じで酒を飲んで馬鹿騒ぎはできない。俺はここで何やってるんだろう…、なんて考えてしまう。なんでこんな風に無神経に騒いでる連中相手に、自分の肘の関節炎の痛みをこらえてまで必死に仕事しなくちゃならんのだろう…。


でもこんな風に考えるのは料理人としては失格かな。海外で生きていこうと決意したはずの僕の根底をたやすく揺さぶっている。

2011年3月16日水曜日

2011年3月15日火曜日

2011年3月14日月曜日

"Pray for Japan"



言葉を失う映像が流され続け、不透明な言葉での政府会見が繰り返されている。それでも世界が一心に日本への支援と救済の手を懸命に差し伸べているその事実を、誇りに思いたい。"人間”で良かったと…。

2011年3月13日日曜日

die Geldspende

大変なことが起こった。かつて阪神淡路大震災の時もそうだったけれど、自然災害そのものを喰い止めることは不可能に近い。ただそれに備えることと、それにどう対応するかだ。それを怠ったために引き起こされる災害は、甚大なる人災でしかない。

今は僕にできることは至極限られている。朝、店に向かう道すがら、何ができるだろう…と自問。救援物資や義援金”Geldspende”を募ることができないか。ここKielでは長く日本との友好を結んでいる都市でもある。戦争中もその友好は途切れることなく、今年で150周年という。店には連日多くのお客様が来て下さる。その方々に訴え、被災された方々への何かの力添えができないか。それをオーナーに提言したら、同じことを考えていたという。早速義捐箱を設置し、オーナーと二人、まずは心ばかりを募金。

するとニュースを聞きつけた方は電話で我々親族のことを心配し、また心をねぎらうコメントを下さったり、中には直接店に出向いて声をかけて下さったり。


設置した義捐箱。実は今日の営業だけでも200Euroくらいの義援金が集まりました。この一歩は小さいけれど、大きな力となってくれることと思います。

被災された方々、今もこの寒さの中、多くの不便を強いられていることと思います。しかし、世界は今まさにこの震災に力を一つして動きはじめています。あきらめないでください。お願い致します。

2011年3月8日火曜日

die Einladung "WEINSTEIN"

晴天に恵まれた今日、約一カ月ぶりに完全フリーの休日がやって来た。TV撮影やら日本酒試飲会など、実際の営業とは違う仕事がらみの日が続いていただけに、まるっきり店を離れての一日はほんとに久しぶり。
実は先月26日が結婚記念日だったのをすっかり忘れていた。ここはちょっと奮発して美味しいものでも食べに行こうと決意。
ここKielにもグルメな高級レストランは3件ある。その内の一軒、フランス料理で有名な星付きのレストラン "WEINSTEIN"。オーナーでありコックも務めるSylvain Awolin氏は二回ほど僕の料理を食べに来てくれて、すっかり気に入って下さっていた。前回「次の休みの日にはぜひうちに食べに来なさい」と熱心に誘ってくれてもいたので、ちょっと高いけれど(かなり高いけれど…)、清水の舞台から飛び降りるつもりで行ってきたわけです。


お店は奥さんがホールをまかない、旦那さんが料理を担当。そんな家族経営のアットホームな感じのレストラン。常に200種類のワインのストックがあり、それに見合うコーディネートされたフランス料理を出されている。月替わりのコース料理は49Euroのみ。もちろんアラカルトもある。魚介類を使った料理が割に多かったかな。ドイツに来てから必要なまでの肉料理のオンパレードに辟易していたからこれは楽しみだ。

席についてすぐにChefが挨拶に来てくれた。「今日は来てくれてありがとう。お楽しみ料理を用意したから、是非楽しんでいって」とメニューをみることもなく食事がはじまった。

まずは先付けにムール貝のサラダ。あっさりとマリネした小さなサラダ。このシンプルな味付けに僕はまず感心した。余計な味付けが邪魔したり、塩加減を間違えてたりと言うのが多いだけに、この後お料理にもかなりの期待が持てるスタートです。

二品目、3種の前菜。左から"サーモンとパパイヤのタルタル” サーモンとパパイヤが合うことの驚きと、その組み合わせに嫌みなく絡み合うイタリアンパセリの風味が絶妙。中央は"鱈とカニの擦り流し”上に乗るのはレモングラスに刺してグリルしたエビ。スープはカニの風味が良く効いておりコクもあり、しっかりと味付けをしていながらもくどすぎないうまさ。鱈の身も入っており、淡白なこの身が強いスープの風味をうまく舌の上でまとめあげてくれる。エビはエビの肉汁とバター、香辛料で風味付けしており、少しタイ風の仕上がり。右は仔牛のスライスにマグロのソース添え。仔牛にマグロが合うことにこれまた驚いた。うまく味がからんでる。

メイン料理の”ラムのもも肉のグリル” ドイツでは豚肉の足肉を使った料理”ヘクセ”が有名だが、ラム肉で食べるの初めて。ソースはデミグラスソース。ドイツ料理と違うのはこのスープが実に澄んでいること。重そうだがくどくない。雑味がない…と言った方が良いかな。妻と娘には少し量が多かったけれど、僕と息子はぺろりと平らげた。
でもまぁ、大した量だ。しかし見た目、盛り付けも丁寧だし、味付けも絶妙。これだけきちんとしたフランス料理を食べたのは、京都にいる時に(かれこれ15年くらい前の)結婚記念日に食べに行ったERGO BIBAMUS以来ではないか。

そして最後にデザート。カラメルのアイスクリームに苺のムース。ムースの上には苺とバジルのシャーベットがトッピング。苺とバジル…これが合うんです! カラメルのアイスはどこか鼈甲飴の風味を彷彿させてくれます。

コース料理は最後の最後まで細やかな心づくしが感じられ、家族共々に大満足。深い感銘すら覚えました。

料理を終えてChefが再び挨拶に来て下さった。
「料理の内容に大変満足しています。またあなたの仕事から多くのことを学びました」と奥さんに通訳してもらった。
「私はあなたの仕事を見てとても感心させられたんですよ。このKielであなたのようにプロフェッショナルに仕事をされる方は本当に稀なんです。そのことに私も感銘を受け、あなたに感謝している。今夜のディナーは私からのささやかな感謝の気持ちです」
そういって代金は取らなかった。僕なんかよりもずっと懐の広い、深い人だなぁ…と僕も感動した。こういう方と出会えるのも、今までの積み重ねか。
これからの自分の仕事も、さらに襟を正して精進していかなくては。そんな事を強く感じました。

2011年3月7日月曜日

schönes Wetter

schönes Wetter なので、また休憩時間を利用して海まで散歩してみた。長い冬、こんな天気のいい日に閉じこもって屋内にいるなんて罪ですよ。


毎日毎日毎日毎日毎日毎日……いっつもどんより曇り空ばかり見上げてたら鬱になります。で、こんな好天を見逃すはずがないでしょう、といっぱしにドイツ人的なことをつぶやいたりする。


それにしても良い天気だ。雲ひとつなく、目立つのは飛行機雲だけ。


辿り着いた海辺。風もなく凪の海辺。


いつか乗ってみたいヨット。こういうのを購入して世話し続ける人ってすごいな。


こんな緑地帯があちこちに散歩道として保存されている。落ち葉を踏む音が心地いい。



散歩に同行した韓国人の若いKoch。二人の会話は変な英語と中途半端なドイツ語とあやしげなドイツ語のみ。


彼の夢は自分のレストランを持つことだという。


僕の夢は…。