2009年7月31日金曜日

川村カオリ


日本時間 7月28日午前11時01分、一人のアーティストが亡くなった。




川村カオリ 38歳



20年前、僕は20代を目前にして、得体のしれない「フラストレーション」を抱えた日々を繰り返していた。
今でもはっきりと覚えている。僕が初めて彼女のアルバムを手にしたのは2枚目のアルバム、「CAMPFEIRE」だった。


駅前の小さなレコード屋だった。いつもなら入らない、とても小さなレコード屋で、勿論売っているのは99パーセントCDなんだけれど、雰囲気がもうまるでレコード屋なのだ。レジの向こうの暖簾の隙間からは炬燵が見えていた。店主の娘がそこで宿題のドリルを解いている、そんな様が見え隠れするような店だ。入った理由も覚えていない。ただ店が開いていたから、冷やかし程度に入ってみただけだ。確か時刻は午後10時過ぎ。その当時ではそんな時刻に開いているレコード屋なんてなかった。その店は小さな個人経営の店で、まだ起きているからという惰性的な理由でただまだ看板を下ろしていなかっただけなのだろう。

最初に「GUNS AND ROSES」の新譜に目が入り、次いで「U2」の輸入版を物色し始めていた。演歌のコーナーが多くを占めていたが、洋楽もソツなくその辺も僅かにフォローしていた。川村カオリの新譜「CAMPFIRE」はやはりその一角にあった。


予備知識はまるでない。ただジャケットのセピア色した風景の中で中空を眺めるかのように視線を泳がしている彼女の横顔に、僕は釘付けになった。それは純粋にインスピレーションだけで買ってしまった。「何かある」そんな理由のない何かに突き動かされて歩みだす、その感覚が好きだ。周りの用意された知識や経験則で物事を判断するよりも、まるで本能で嗅ぎ分けるその一瞬の判断力を、僕は僕自身に大いに委ねるきらいがある。外れることもあるけれど、あたった時の喜びはこれまた一入だ。

「川村カオリ」 はまさにそんな本能で引き当てた、十代最後のまさに「お気に入り」のアーティストの一人だった。

彼女の歌は、僕らの世代の心深くに投げかける歌詞が多かった。まだ未成熟な、というか未完成な感覚が、まさに我々世代の代弁者として、言葉にならない感情を表現してくれていた。


彼女が乳がんであることを知ったのは、不覚にもドイツに来る日の2日前の書店で手にした文庫本「Herter Skerter」だった。 僕はその本を機内で読み、深いショックに見舞われた。


同年代の今を生きるものとして、人の親として、クリエーターとして、彼女が僕に残したものは大きい。いまはただ、静かに彼女の歌を毎日、聴いて過ごしています。













2009年7月26日日曜日

祖父(追記) ~2~ 


翌朝、目が覚めると周りの大人たちがあわただしく動いていた。

僕の体はすっかり軽くなっており、気分も清々しかった。僕は布団の上でぼんやりと、おじいちゃんがもうここにはいないことを分かっていた。でもそれは悲しみと言うのとは少し違うと思った。寂しいが、哀しいわけじゃない。もうおじいちゃんのひざのうえで晩御飯を食べることもないし、その硬くて短い角刈りの頭に触れることもできない。けれども・・・・子供心に「寂しいけれど、それは哀しいのとは違う」と思っていた。


祖父は大阪のわりと大きな山の神社を司る神主の長男として生まれた。当然その跡継ぎとして育てられたが、戦争で出兵してから自分の人生を見つめなおした。終戦後は実家に帰ることなく、自分の好きな職業に就くためにあれこれと転職を続けた。最後は小さな製鉄所を自ら設けたが、それまでには寿司職人にもなっていたと聞いた。または海辺で拾う流木や、山で拾ってくる枯れ枝を磨いてはオブジェのようなものを作っては床の間に飾り、水墨画も嗜んだ。

終生、好きなことを模索し続けた祖父だった。また10人いる孫のうちかわいがったのは僕一人だけだった。親戚一同が口をそろえて言うのは「本当に気難しい人だった」と言う一言に尽きる。口数は少ないし、頑固。祖母が作る食事が不味いと言って食卓をひっくり返し、時には自分で作り直すくらいの完璧主義だったとも聞いた。だから僕が祖父のひざの上で一緒にご飯を食べたり、背中に抱きついて頭をなでたりしていると、「信じられない」と口々に言われるのだった。


僕にとって祖父はどこまでも優しく、どこまでもかっこいい人だった。もう亡くなって約30年が経つとしているが、いまだに祖父の顔をありありと思い出すことが出来るし、手を引かれながら一緒に歩いた散歩道の光景もリアルに思い出すことが出来る。

僕はいつも祖父の背中を追い続けているんだと思う。その生き様を子供心にかっこいいと思い、いとおしく思い、今も憧れつづけている。振り返ると僕も実家を遠くはなれ、自分の好きな人生を今もまだ模索している。さまざまな困難や岐路に立たされるときによく祖父のことを思い起こす。
「大丈夫、オレはやれる。やれるはずだ」 と、確固とした理由もないのに不思議と勇気が湧いてくる。それが祖父のお陰であることは言うまでもない。

2009年7月22日水曜日

祖父 ~1~



祖父について






人生の節目節目で、いつも気がつけばその人の背中を探していた気がする。
その祖父は、僕がまだ小学三年のときに他界した。癌だった。

今でもその当時のことははっきりと覚えている。
授業中に職員室から人がやって来て担任に何か耳打ちをした。担任は少し顔を曇らせて僕のところに来て、「今日の授業はもういいから、教科書をまとめてすぐに家に帰りなさい」といった。
理由はその時何も話さなかった。でも直感的に今何が起きているのか、空気は読めていた。僕はまだ入学したばかりの妹を校門で待ち、一緒に家に帰った。まだみんなが授業を受けているのに正々堂々と下校できる優越感のようなものがあったのを覚えている。
そうなのだ、僕には祖父の「死」と言う現実についてまだ何も知らなかった。

家に帰ると父母もあわてていた。急いで荷物をまとめて車に乗り込み、大阪にいる祖父母の家に向かった。この車内で初めて事の重大さを知った気がする。いつもならわいわい騒ぎながら、ラジオの流す歌謡曲を一緒に歌いながら、さながらカラオケ同然だったムードもその時には微塵もなかった。

「おじいちゃんがあぶない」 母がそう短く端的に告げた。

家に着くまで僕は黙ってずっと外を眺めていた。大阪に向かう道のりはずっと灰色だった。軒を連ねる工場やそこから立ち上るいく筋もの煙、高速道路のガードレールや、道幅を寄せるように走るトラックも、空も、山も、川も、何もかもが灰色に見えた。

「いやだな・・・」 僕にはその重苦しい空気が辛かった。ときおり父と母が鼻をすすった。妹は黙ったままだった。気がつくと、僕は後部座席に横たえて、嫌な汗を額に溜めていた。息が苦しい。体中がほてっていて、喉がすごく渇いている。それでも何も口にしたくない。少しでも口にしたとたん、胸までせり上げている何かを吐いてしまいそうだ。途中で気がついた母が「どうしたん? 大丈夫か!?」と額に掌をあてる。「この子熱あるみたいやわ」
「もうすぐで着く。我慢できるやろ」 父はスピードを上げた。

家に着く少し手前で気分が落ち着きはじめた。
辺りは少し薄暗くなりはじめている。と言うか、周りがすっかり灰色に覆われている・・・・と言う印象が深い。何度か見かけた親戚の叔父さんや叔母さんが小走りに母屋に向かっていた。その横を車で追い越し、路肩に止めて、すぐに玄関に連れて行かれた。

「はよ行き! まだ間に合うから」 誰かがかすれる声で言った。
愕然とした。見慣れたはずの祖父母の家の居間に大勢の大人たちがいて、土色に痩せ衰えた一人の老人を取り囲んでいたのだ。

「よう来た! はよおじいさんに挨拶せい」 叔父さんにそう促されて跪いたが、横たえる痩身の老人は天井に視線を向けたまま、僕達にはまるで気付いていない様子だった。

僕にしてみても、それが大好きだった祖父だとは思えなかった。それは他の誰かであり、現実ではないどこかよその出来事のように思えてならなかったのだ。
体の力が、急にぐらりと傾いて抜けていくのを感じた。
様子がおかしいのを母が見て、僕はすぐに離れに連れて行かれ、用意された布団で泥のように眠った。

どれくらい眠ったのかは分からない。気がつくと、薄暗い天井がある。どこだろう・・・と思うよりも先に、僕は祖父がそこにいることに安堵していた。
祖父は、僕の足元の少し先に立っていた。
「なんだ、そんなとこにいたんや」 と、僕はやはり安堵する。僕の知っている祖父はそこにいたのだ。祖父はいつもの優しい微笑を浮かべて、僕を見下ろしていた。やがて祖父が僕に手招きをしていることに気がついた。もっと近くにおいで、と言うかのように。でも重い僕の体は思うように動かなかった。



こだわり

この頃ぼんやり考えはじめていることがあります。それは10年後の自分について。

10年後といえば、子供達も成人になり、親元を離れそれぞれに暮らし始めている頃・・・のはず。24で子供が出来て、とにかく走り続けてきた感がある。それで子供達が離れたら思いっきり自分の好きなことをしてやろう・・・・とたくらんでいるわけです。

40年も生きていると、さすがに自分のことも把握できるようになってきます。「オレはどうしたいのか、どうありたいのか・・・」について。

僕は別にドイツに拘っているわけではない。むしろ全然と言っていい。本当はパリで仕事がしたかったくらいだ。今でももしそんなチャンスがあるなら飛んでいくだろうな。そしていつかやってみたいのはインド放浪の旅。妻も店の同僚も「どうぞご勝手に・・・」的冷ややかな視線をくれるだけだけれど、インドの何が悪いのか僕にはさっぱり分からない。僕なんかマジでガンジスで沐浴をするのが夢なのだ。自己を清浄し、その身を朝日に委ねたい。こういうことを言うと余計に視線が冷ややかになる。・・・・おかしいな。

2009年7月20日月曜日

「慢心」


2年半前、初めてこっちに来た時はなかなか自分の思い通りの仕事が出来なかった。


いろんな意味で気負いすぎていたのかもしれない。うまくやらなければ、きちんとやらなければ・・・・余計なプレッシャーで毎日押しつぶされそうだった。
簡単なことで信じられない失敗をしたり、思い違いの勘違い、失敗の繰り返し・・・・。
「なんでこんなこと出来ひんのやろ」自分でもわけが分からない。「これでも10年飲食の仕事をしてきたはずだろ?」 自問する日々が長く続いた。

ある日、痺れを切らした店の古株の人にこう言われた。
「悪いけど、あんたの居場所はこの店にあらへんで」 鼻で笑うように言い捨てられた。
・・・・・悔しかったな。悔しさは怒りに近く、怒りが悔し涙になってました。殴り殺してやろうか・・・・というほどの感情です。しかしそれを覆すだけの仕事が出来ていない。どんなに悔しくても、それを現場で、実力で返していかなければ意味がない。

しかし内心ではそいつよりも実力は勝っていることを信じて疑わなかった。だから自分に出来ることをひたすら根気強く、丁寧に、投げ出すことなく懸命にやり抜けば、自ずと結果は出るはずだ、と確信していた。
だから毎日誰よりも早く店に出て、休みを返上して仕事をし、一切の手を抜くことなく、ただがむしゃらに日々向上、日々精進の精神で仕事に打ち込んでいった。家族を引き連れて日本を飛び出してきたのだから後がない。がむしゃらにならなくてどうする。しかしキャリア10年目にして、まさに「0」からのスタートだった。環境の変化が、これほどまでに自分を無力化するのか、と痛感した。というよりもうそれほど若くないのだ、と肌で感じた。若い頃はどこに行っても、何をやっても自分をとことん自負することが出来たし、それに自分の能力を伴わせることが容易だったはずだ。


そんなある日、この店に来て一年が過ぎようとしていた時、オーナーから「店のメインである寿司を君に任せる」と言われました。
嬉しかったな。私に用済みのレッテルを貼った彼をそのポストから引き摺り下ろしたわけだから。
その彼はもともと自己中心的なところがあり、アルバイトとの衝突や、お客さんとのトラブルも少なくなかった。技術はそれなりに高いレベルのものも持っているのですが、誰かと協調して何かを推し進めたり、クリエイティブに仕事に打ち込むことが出来なかった。全ては彼の慢心のせいだと思う。
こっちで寿司を握っていると、マイノリティーとしてやはり注目されるんです。
日本の寿司屋ではたらく職人さんに比べると、こっちでの仕事の量はずっと少ない。だから手を抜こうと思えばいくらでも抜けてしまう。人間なんてつい楽をしたがる生き物です。そこをぐっと押し殺して自分を叱咤激励し、ポジティブに向上心を持って仕事に向かわなければならない。当たり前のようで、これが実は簡単ではない。偉そうなことを書きながらも、やはり自分を振り返ってみます。
「慢心」という病魔は、いつもすぐ近くで手を拱いているから。

それから1年後、彼はこの店を去ることになります。彼は最後まで自分の驕りを拭い去ることは出来なかった。慢心でいることがどれほどその人の持っている才能を蝕んでしまうのかを知るいい機会でした。






「反面教師」という言葉がありますが、その教訓を得るかどうかは謙虚に自分を見つめ直し、今日よりも明日へと向上しようと鍛錬しているかどうかにかかってくると思います。

スイングして行こう

八月のおすすめ寿司を試作。
中には胡瓜の千切りにFrischköse、外側にうなぎにチリソースと七味。特に珍しい取り合わせではありません。所謂「ドラゴンロール」として創作寿司の中ではメジャーな一品にチリを加えた感じ。食べてみて悪くない、うまい・・・・でもなんか足りんなぁ・・・・と、いままだ思案中。

暇な時間を利用して次の新作をいろいろ試作してみます。作ってはバイトの子に食べさせたりして反応を見ます。色んな試行錯誤を繰り返して、また前に進むのです。少しずつ、少しずつ・・・。

話は全然飛びますが、久しぶりに Miles Davis を聞いてます。僕は別にJazzに詳しくありませんが、いい音楽を聴いて、至福を味わうのに薀蓄はいりません。・・・よね?
いまは1955年プレスティッジ・レコードから発表されたアルバム 「The Musings Of Miles」 を聴いてます。このアルバムではベースをポール・チェンバースではなく、オスカー・ぺティフォードが参加しています。このぺティフォードとレッド・ガーランドのピアノとの絡みがなかなか渋くていい。初期のMilesの中でも一番好きなアルバムかもしれないな。・・・・スイングしてるなぁ・・・・。たのしい。

2009年7月19日日曜日

自分の腕ひとつ


今いるレストランとは3年契約で仕事をしています。これは最初にビザを申請する際に、雇用契約書を役所に提出するわけですが、これにそう明記されています。つまりあと半年でこの契約が切れるわけです。まるで野球選手と同じですね。実績がなければ、・・・・つまり結果を出せなければ、オーナーは相手を契約切れという大義名分でクビを来ることが出来ます。

今年ビザの更新を済ませ、これまでは申請したレストランでの就労のみを認める限定されたビザだったのが、今はドイツ国内であればどのような職種の仕事でも出来るビザに変わった。極端な話、TAXIの運転手にだってなれるわけです。

この国で自分が店を持つには永久ビザが必要です。それは5年以上の就労実績が必要となります。僕の場合、あとニ年半なわけです。


自分は契約上、今のレストランに籍を置いていますが、基本はフリーの料理人です。謂わば、自分の腕ひとつで流れていくわけです。


さてと、次の自分の一歩・・・・について、ふと思いを馳せてみるのですが、まだ何も閃いてきません。自分は何をしたいのか、どうありたいのか・・・・まるで二十歳の頃の葛藤にあまり変化がないことに愕然とします。
店が終わったあと、一人ぼんやり客席を眺めていたら、そんなことを考えていました・・・・・。

2009年7月18日土曜日

特別注文


忙しかった・・・・。今日は持ち帰りの注文がひたすら多くて、いま抜け殻のようになってます。上の写真はそのうちの一枚。
んなわけで、今日はこれにて失礼します。おやすみなさい・・・・。

2009年7月16日木曜日

アイデンティティー


こっちに来てもなかなか僕のドイツ語は上達しません。結果的に、日本語を喋れる人と出会う機会の方が多くなります。


日本語を勉強して話せるようになったドイツ人。こういう方々には身の回りのことでかなりお世話になっているんですが、それ以外の方々について少し触れたいと思います。


まず、


○ 日本人だけれども、ドイツで生まれ育った日本人(ドイツ語はネイティブに話せるが日本語は少し変)


○ 日本人だけれども、ドイツで生まれ育ち、日本語が苦手な人


○ ドイツ人だけれど、日本で生まれ育ったドイツ人(日本語完璧)


○ ドイツ人でも日本人でもないけれど、幼少時に日本での滞在経験があるために日本語を日常会話で話せる人


彼らを見ていると、「国籍」って何だろう・・・・と思ったりします。


ある人の境遇はこんな感じでした。


日本人とマレーシア人のハーフで、生まれはマレーシア。小学校高学年から中学卒業まで日本で過ごし、高校はドイツ、その後大学に進学してロンドンに留学、そんな彼女はマレーシア語、日本語、ドイツ語、英語をほぼ完璧に使いこなせてしまい、今は趣味でスペイン語とフランス語を勉強しています。一度彼女に「もし日記を書くとしたら何語になるの?」 と尋ねたら、迷わず「マレーシア語」と答えました。というのは、まず誰にも読まれる心配がないから・・・だと。なかなか実用的な判断だと思った。でも続けて彼女はこう付け加えていたのが印象的でした。


「でも感情が高ぶって気持ちを吐き出したい時に、自分の中で何をどう言い出せばいいのか分からなくてパニックになることがあるんです」


僕なんか日本語くらいしかまともに使えないのに、時として自分の気持ちをどう素直に表現したらいいのか分からなくなるのに・・・・。








Sushi ・・・・とは・・・。

これまでいろいろ作ってきたお寿司の写真を少し紹介。

いきなりですが、これは寿司ではありません。サーモンを使って醤油わさびドレッシングで作った「生春巻き」。以前働いていたお店で作っていた一品のアレンジです。けっこう受けが良いのを予想していたのですが、今ひとつでした。嗜好の違いをひとつ勉強させてもらった一品です。

中に海老の天ぷらを入れて巻いた創作寿司。毎月のおすすめ寿司を作る上で何を使うかが悩みのタネです。限られた食材の中で、何をどう作るのか・・・・ですね。
似たような商品はどこかにもあると思いますが、それすらもどう盛り付けるか、どう演出するかで、目線が変わっていきます。



お寿司の盛り合わせ写真2点。スーパーに言っても鮮魚コーナーのないドイツです。寿司ネタに使える食材はかなり限定されています。上の写真は予算も抑えて、生の魚に抵抗のある人にも食べやすいもので・・・・というなかなか難儀な注文にお答えして作ったパーティーセットです。自己中心的な欲求が個人のアイデンティティーと認められる国ですから、そんな要求にもある程度答えていかなくてはなりません。・・・いやいや、ホント大変です。

2009年7月15日水曜日

晴天・・・空は高し


終わったかと思われた夏が、再びやってきました! 最高気温は27度(最低気温14度)。それでも湿気がないので、部屋の中にいても締め切っていながらクーラーの必要もなし。というか、こっちの家庭に通常クーラーはありません。持っていても扇風機くらい。家にもありますが、使わずに倉庫に眠っています。それに比べて毎日30度以上の真夏日の日本。湿度を考えると体感温度は40度近くなるだろうな。
同僚の中にはこの夏の休暇で日本に帰る人が何人かいるのですが、口をそろえて「あの暑さがなければ最高なんだけどな」と言っています。バルコニーの紫蘇。この春に日本から送っていただいた種が立派に育ちました。こまめに剪定しては店にもって行き、お刺身や寿司に使います。こっちでも手に入るのですが、高価な上に、香りがあまりしないのが欠点です。店に来るお客さんの中にはさすがに分かる人もいて、この大葉はどうされているんですか? と聞かれたりします。時々苗や種を分けてほしいといわれるので、あまっている時はおすそ分けしたりもします。

さて、今年のドイツの夏はいつまで続くのでしょうか? ドイツで一番夏らしい日が続くのは、もしかしたら5月や6月くらいかもしれません。7月で気候が不安定になり(暑くなったり、寒くなったり)、8月で秋の気配・・・・てな感じ。

そういえば、今頃祇園祭ですね。懐かしいな。

2009年7月12日日曜日

市場巡り 


どんな小旅行をしてもかならず行く場所は「市場」です。所謂「青空市場」です。
そこに行けば、その地域の人々の暮らしを垣間見ることが出来ます。見たことのない野菜や果物に出くわすこともあるし、日ごろ見ない食材に出くわすと、ただそれだけでワクワクしてきます。

この前は西瓜を買いました。1玉1.5ユーロ、300円くらいですか? それほど大きくないですが、実もしまってていい音してたので迷わず買ったんですが、なかなか甘くてシャリシャリしてて大当たりでした。スペイン産の西瓜、なかなかオススメです。しかもタネがものすごく小さいんです。ゴマ粒みたいなの。だからぼりぼり一緒に食べちゃいましたけど・・・はい。



市場のワイン売りやさん。見た目は興味をひきますが、あまりこういうところでは買いません。結構高いから・・・。

どこで見ても「空」は「空」なんだな

昨日、久しぶりに日本の夢を見ました。
内容は忘れました。ただ、自分が「今日本にいる」という自覚だけがその夢にはっきりと刻まれていて、目が覚めて、無性に和食の朝飯を食いたくなった・・・・というわけです。

メニューはもちろん炊き立ての白い飯と、焼き海苔、鯵の味醂干かハタハタの干物、これにジャガイモと玉葱が入った味噌汁。焼き海苔と、白菜とか胡瓜、水茄子なんかの漬物。あと新鮮な生卵・・・。
目が覚めて、それが叶わない場所にいることを改めて確認したとき、これが自分にとっての最後の晩餐に挙げられるメニューなんじゃないかな・・・と、思いました。・・・はい、マジで・・・。

前の会社を辞めるとき、上司からは散々言われました。馬鹿なこと考えるな・・・・とか、上手くいくはずないとかなんとか・・・。
上手くいっているのかといえば、そうとも言えるし、そうでないとも言える。結局まだ答えなんか出ていませんから・・・・・
写真は、日本を出る約三ヶ月前に撮りまくった写真のうちの一枚。(電線が写ってる。こっちにはないからなぁ) 今こうして見返してみて。やたら空ばっかり撮ってたな・・・・って気付きました。「空」の向こう・・・、今も、どこまでも、ただ追い続けてる・・・・・、ってそんな感じです。

ああぁぁ!、食いてぇなぁぁぁ・・・「ねこまんま」 (白飯に生卵と刻み海苔、これに醤油をたらしてガツガツ食べるのです)

※ドイツでは卵を生で食べることは出来ません。日本の様な卵に関する衛生基準が無いために不可能なのです。我慢しきれずに食べて見事にサルモネラ菌による食中毒で大変な目にあった人を知っています。何しろ鶏肉のミンチですらスーパーに並んでないんですから・・・・。そのくせ豚肉のミンチは「生」でパンにぬって食べる国民なんですがね・・・・、全く訳わからんです、ほんまに。

2009年7月10日金曜日

懐かしい炭の匂い

こっちに来てよくやるようになったことと言えば、「グリルパーティー」。今のところ参加させてもらってる側ですが、こっちにいる高校以来の友人がいつも誘ってくれます。


用意するのはグリル専用の鉄釜。これに炭と紙切れ、細切れの木片を入れて、懐かしい焚き火をスタート。これがなかなか点火しないんですね。最近の再生紙には色んなものが含まれているようで、火の回りがうまくいきません。それでグリル専用の可燃料を注ぐことに。


後は用意した炭や木片がうまく燃え上がるのを待ち、炎が落ち着いてから肉とか野菜、ソーセージをグリルしていきます。実に簡単で、実に美味い。




前回用意したのは「渦巻きソーセージ」と「HALUUMI」という名のギリシャのグリル専用の「山羊チーズ」、そして「焼きおにぎり」。これと別に友人の奥さんがサラダをボールで用意してくれていて、それらをワシワシと平らげていきました。

飲んだのはボルドー産の「アイスワイン」を食前酒に、つづいてフランケン地方の地ビールに始まり、スペイン産ロゼワインとフランス産赤ワインを次々に空にしていった。

この日は、気がついたら夜中の1時半まで飲んでました。
いやぁ・・・、久しぶりに飲んだ飲んだ。食った食った。



友人とはむかし・・・・そう20年ほど前は二人でよく日本の地方を旅して周っていました。いつも貧乏旅行で、野宿もけっこうやりました。

まさかお互い40を目前にして、しかも二人して日本を離れ、こんなところで20年前と殆ど変わらない話題で盛り上がっているなんてな・・・・。嬉しいです。




体に沁みついた炭の匂いが、これまた思い出を蘇らせてくれました。・・・・はい、お互い、確かに歳だけは確実にとりましたね。




外食も仕事のうち・・・

昨日、娘とタイ料理のお店に行ってきました。


ドイツに来てこれまでいろいろなお店に行きました。「これは・・・!」とうならせてくれる店もあれば、そうでない店もあります。昨日行った店は、間違いなく最下位のお店、でした。

実はそのお店、以前も家族で外食して結構気に入っていたのですが、値段が他に比べていささか高かったためか、近くの安くて美味しい中華インビス(食堂=インビス)のお店に押されて閉店に追い込まれてしまったのです。そこが新たにリニューアルオープン。何度か前を通っていつも満席だったので気になっていたのです。

そんな経過を踏まえた上で期待に胸を膨らませていざ行かん!


・・・・・結果は、実に粗悪なインビスに成り果てていた・・・・・のでした。

店内は学生達で満席。メニューは多くが5ユーロ程度。確かに安い!・・・が、そのあまりの安さに一抹の不安がよぎった。その予感は見事に的中。びっくりするくらいに不味い!! 不味すぎて写真を撮るのも忘れていた。(勿論撮ってても瞬殺で削除するが)

「んげげ・・・!」、と思わず娘と顔を見合わせてしまった。それでもお客の学生達はぎゃぁぎゃぁ騒ぎながらそれを平らげている。「マジかよ?」と思わず自分の舌を疑った。しかしその疑いの矛先ははすぐにドイツ人達に向けられた。まだ高校のとき学食で食べたチャーハンの方がはるかに美味いぞ。

よほど量が多過ぎて食べられなく、持ち帰りにすることはあったけれど、不味くて食わずに残して帰ったのは、生涯でこのときが初めてでした。


家に帰って思わず日清インスタント焼きそばで食いなおししました。とほほ、情けない。しかしこの方がはるかに美味いぞ。やるな日清!!




下の写真は、先週行ってきたオーストリア・ザルツブルグの旧市街地にある「K und K」というホテル1階にあるレストランで食べた「Pfifferling」というキノコと「クネーデル」の入ったクリームシチュー。この日のオススメメニューということで注文した一品。これがかなりの美味! 季節には少し早いPfifferlingでしたが、しゃきしゃきとした鮮度の良い食感は後を引きますね。塩加減もちょうど良し、シチューもコクが嫌味の無い程度にバランスよく、重いバイエルン料理をうまくまとめています。
いやホント美味かった。


2009年7月9日木曜日

Urlaub !!


開設初日にして二度目の更新。

最初から飛ばしてどうすんの? と我ながら思いますが、暇なので・・・。


今は夏の休暇中。


日本だと毎年の夏の休暇は5日間だけだった。

こっちに来て夏の休暇は2週間に増えた。約10年間、日本の飲食店で働いてきて、そんなサイクルに慣れてきた私は、ガツンともらえる2週間の休みをどう使っていいのか判らずに、いまだに持て余している。勿論、こっちに長くいる人たちはスペインのマヨルカ島やトルコのリゾート地に1週間でも10日でもいってしっかり骨休みしているんだが、なかなかそういうバカンスの使い方がうまく理解できないでいるヘタレな私である。


奥さんと息子は今日本に一時帰国中。残った私と娘は毎日をタレパンダのように過ごしている。そんなことを書くと娘に一喝されてしまいそうだ。

娘はこっちのバレエ学校に通っている。今は特別に夏期教室に通っている。オーディションの末に合格し、奨学金を得て、毎日喜び勇んでそこに通っている。

娘は今14歳。その年で自分の目指すものがよく見つかったな、といつも褒めてやってるんだが、その歳の自分がどうだったかを振り返ると、なかなか恥ずかしいものである。

僕はといえば、好きな女の子の事で毎日は、いや、地球は動いていたのである。


10代の頃の私には、心に刻む一人の女の子がいた。


正直言って、その当時の事は一生忘れることは無いだろうと確信していた。でも40を眼前にして、曖昧になった記憶の輪郭に抗うことは出来ない。

「忘却」とは、人類に残された大いなる「救済」である。

むかし読んだ誰だったかの本に書いてあった。
今はその意味もわかる気がする。

夏が終わる



今日のドイツの気温は19度。7月上旬の気温としてはいささか涼しすぎるだろう。でもここは日本と比べると、北緯はほぼ国後半島に等しい。


もはや秋の気配。



バルコニーでは、日本から送ってもらった野菜の種を育ててきたけれど、実がなる前にダメになってしまうかも・・・。ようやく形になりはじめた「オクラ」も、もはやその成長を著しく弱めてしまった。
こっちに来て早いもので2年半が過ぎた。ようやく・・・・ドイツ語も真剣に勉強しはじめています。
何につけても、他人から押し付けられるものには梃(てこ)でも動かない性格で、それでも自分がこうと決めたら梃でもゆがめられることのない性格。せかされても自分のペースを崩すことが出来ないし、そんな自分のペースを無理やり崩されるとまるでダメダメな性質。


そんな自分も今年で40歳、二児の父親。果たしてこんな俺でも親になれるのか、なんて思いながら結婚15周年だから、世の中どうにでもなる。
大体結婚した当初は無職だった。その結婚前に子供も出来た。なかなか無茶苦茶な人生だが、奥さんは俺よりも上を行く無鉄砲だったのかな・・・? 

1969年、京都出身。山羊座のA型。職業、料理人。現在ドイツ在住。


そんな私のブログを今日、開設します。