翌朝、目が覚めると周りの大人たちがあわただしく動いていた。
僕の体はすっかり軽くなっており、気分も清々しかった。僕は布団の上でぼんやりと、おじいちゃんがもうここにはいないことを分かっていた。でもそれは悲しみと言うのとは少し違うと思った。寂しいが、哀しいわけじゃない。もうおじいちゃんのひざのうえで晩御飯を食べることもないし、その硬くて短い角刈りの頭に触れることもできない。けれども・・・・子供心に「寂しいけれど、それは哀しいのとは違う」と思っていた。
祖父は大阪のわりと大きな山の神社を司る神主の長男として生まれた。当然その跡継ぎとして育てられたが、戦争で出兵してから自分の人生を見つめなおした。終戦後は実家に帰ることなく、自分の好きな職業に就くためにあれこれと転職を続けた。最後は小さな製鉄所を自ら設けたが、それまでには寿司職人にもなっていたと聞いた。または海辺で拾う流木や、山で拾ってくる枯れ枝を磨いてはオブジェのようなものを作っては床の間に飾り、水墨画も嗜んだ。
終生、好きなことを模索し続けた祖父だった。また10人いる孫のうちかわいがったのは僕一人だけだった。親戚一同が口をそろえて言うのは「本当に気難しい人だった」と言う一言に尽きる。口数は少ないし、頑固。祖母が作る食事が不味いと言って食卓をひっくり返し、時には自分で作り直すくらいの完璧主義だったとも聞いた。だから僕が祖父のひざの上で一緒にご飯を食べたり、背中に抱きついて頭をなでたりしていると、「信じられない」と口々に言われるのだった。
僕にとって祖父はどこまでも優しく、どこまでもかっこいい人だった。もう亡くなって約30年が経つとしているが、いまだに祖父の顔をありありと思い出すことが出来るし、手を引かれながら一緒に歩いた散歩道の光景もリアルに思い出すことが出来る。
僕はいつも祖父の背中を追い続けているんだと思う。その生き様を子供心にかっこいいと思い、いとおしく思い、今も憧れつづけている。振り返ると僕も実家を遠くはなれ、自分の好きな人生を今もまだ模索している。さまざまな困難や岐路に立たされるときによく祖父のことを思い起こす。
「大丈夫、オレはやれる。やれるはずだ」 と、確固とした理由もないのに不思議と勇気が湧いてくる。それが祖父のお陰であることは言うまでもない。
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